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ARTISTS

Yu-ichi Inoue

井上有一

1916-1985(大正5年~昭和60年) / 日本

井上有一「花」
1968年(昭和43年) 墨、紙

東京・下谷二長町に古道具屋の息子として生まれる。1935年に本所区横川尋常小学校の教員となる。教員の傍ら始めは画家を志すが教職との両立が難しく1941年より8年間上田桑鳩に師事し、書の道へ進む。1945年3月10日、東京大空襲により仮死状態となるも約7時間後に生還する。戦後50年代から美術界では人類が戦争を体験したことにより、ダダイズム、シュルリアリズム、原始美術、抽象表現主義、アンフォルメルなど、近代的合理主義に対する否定の美術が欧米を中心に起こっていた。それと時を同じくして有一の芸術哲学も開花していった。有一は原始美術やアウトサイダーアートに特に共感し、因襲的な書壇に縛られない万人に開かれた書を説く。1949年には森田子龍らと墨人会を結成、書の国際化・現代化を目指す。また1951年頃、洋画家の長谷川三郎と出会い現代美術の論理を学び、そのことが有一の芸術哲学の形成に影響を与えた。1954年「日本書道展」(ニューヨーク近代美術館)に出品、1955年「日本抽象美術展」(東京国立近代美術館)、「現代日本の書」展(ヨーロッパ巡回)に出品。1955年~56年にはエナメルとケント紙を用いて「メチャクチャデタラメ」書きといった文字をもたない抽象表現書を集中的に制作し、これは有一の書の表現の幅を拡げるきっかけとなる。有一が「漢字は単に意味と形と音を持つコミュニケーションの記号として片づけられるものではない。書が成立する秘密の大きな一因がそこにある」と語るように、有一の書は西洋の芸術概念では生み出すことのなかったアートであり、表意性や造形美をも超越した紙と墨による全く新しい表現である。1957年「第四回サンパウロ・ビエンナーレ」展に出品(1961年第六回にも出品)、出品作《愚徹》はのちにハーバード・リード『近代絵画史』に掲載される。1976年神奈川県高座郡寒川町立旭小学校校長退職を最後に41年5か月の教職生活を終える。1979年「JAPAN TODAY」展(シカゴ)に出品。他多数の国内外の展覧会に出品、個展を開催する。1985年劇症肝炎により逝去。没後は、2016年の大回顧展「生誕百年記念 井上有一」(金沢21世紀美術館)をはじめ、多数の展覧会が国内外で開催されている。有一の書は先に述べたアメリカの抽象表現主義やヨーロッパのアンフォルメル、また日本の具体美術などと時代を同じくする重要なアートとして高く評価されている。

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