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Auguste Rodin

オーギュスト・ロダン

1840-1917 / フランス

オーギュスト・ロダン
「考える人」 1880年 ブロンズ

パリ下町に警察庁の雇員の子として生まれる。幼少から絵を描くことを好み、14歳の時に地元の工芸実技学校に入学するが3年後退校。極度の近視で、学業にあまり関心を示さなかった。パリ郊外のポーヴェ私立学校に入り、2年ほど寄宿生活を送る。その後帝国素描・算数専門学校に通い、彫刻と出会った。ルーブル美術館通いに時間の大半を費やす。国立美術学校エコール・デ・ボザールへの入学を志願するが、3度受験に失敗して受験資格を失った。1863年22歳の時に姉が失恋を苦に自殺。悲嘆にくれるあまり修道会に入会し、見習い修道士として1年余を過ごす。その後、再び彫刻に激しく情熱を傾ける。
1864年「鼻のつぶれた男」をサロンに出品するも落選。ショックを受け、以後長期にわたり作品を発表していない。24歳で生涯の伴侶となるローズと出会い、長男誕生。1875年35歳でイタリアに旅行し、ミケランジェロの彫刻に触れたことが人生の大きな転機となる。帰国後12年ぶりの彫刻「青銅時代」に取り組み、ブリュッセルの芸術協会展に出品。激しい生命感をもった等身大の裸体青年像は、そのあまりのリアルさに人体から直接に石膏型取りしたのではないかと噂がたった。このスャンダルが結果的に功を奏して、彫刻家の名をフランス中に知らせる。作品は1880年40歳の時に国家に買い上げされて公的な評価を得た。同年、国家から国立美術館のモニュメント制作を依頼される。ダンテの「神曲」地獄篇に登場する「地獄の門」を彫刻のテーマとしたが、1888年美術館の建設計画は白紙に戻り、製作中止命令が届く。しかしこれを断り、金を払って自分の物として1917年の死まで彫り続けた。高さ5.4メートル、幅3.9メートルの巨大な門には、184人とも186人ともいわれる人物が登場。門を飾る無数のモチーフのひとつを独立させた「考える人」は、数多く鋳造されて世界中に存在している。
古代から続くリアリズムの伝統を踏まえながら現代美術を先駆した、ルネサンス以来最大の彫刻家である。

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