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ARTISTS

Paul Gauguin

ポール・ゴーギャン

1848-1903 / フランス

ポール・ゴーギャン「ふたりのタヒチの女」
油彩・キャンバス 1898年
(ニューヨーク メトロポリタン美術館)

2月革命後間もないパリに生まれる。共和系ジャーナリストの父親は、新政府の弾圧を恐れてペルー亡命を試みたが渡航中に病死。残された母子はリマに滞在、南国で豊かな日々を送り1855年フランスに帰国した。神学校に通った後、1865年航海士になり南米やインドを訪ねる。1868年から海軍在籍。1871年パリの株式仲介買商の店で働き出し25歳で結婚、余暇としてデッサンを始めた。1874年ピサロと知り合い当時の前衛芸術である印象派に接近、絵画制作にのめり込む。1879年第4回以降印象派展に出品。1883年34歳で有望な実業家の地位を突如捨て、本格的な画家活動を開始。極貧生活に妻は子どもを連れて去った。
1886年以降しばしばブルターニュ地方のポン=タヴェンに滞在。芸術家のコロニーが形成され、伝統的な文化習俗が残る土地で、総合主義を唱えるベルナールらと制作をともにする。デリケートなタッチを重ねた色面を、太く濃密な輪郭線で区切って画面構成する様式、クロワソニズムを確立。素朴な自然を見つめて独自の思想に到り、都市の近代生活を謳歌した印象派の強い影響から抜け出した。
1889年パリ万国博への出品作が注目を集め、世評が高まる。一方、1888年南仏アルルでのゴッホとの共同生活は2か月で破綻。幼年期に体感した原始的なるものを希求して、画家は南国への憧れに駆り立てられた。1891年43歳で、南海の孤島タヒチに旅立つ。熱帯の花と果実に彩られた地上の楽園で、人間の原初のみずみずしい感性に触れ、自身の芸術を完成させていった。神秘的な生命力を宿す現地の女性たちを、単純化された形態と深い輝きを持った色彩で、抑制の利いた画面構成のなかに表現した。
生活苦の末に健康を害し1893年フランスに戻るが、作品は売れなかった。絶望を味わい1894年再びタヒチへ向かう。心身の状態は悪化して資金は底をつく。極限に追い詰められるほど自己の内面へのまなざしは鋭くなった。1897年49歳の時娘の死を知り自殺を決意したが未遂に終わる。この時期、精神的遺言として描かれたのが「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(1897-98年 ボストン美術館)である。文明と野蛮の狭間に生きた画家が執拗に取り組んだ人間の宿命をめぐる物語が、一枚に凝縮される。

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