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Jean-Baptiste Camille Corot

カミーユ・コロー

1796-1875 / フランス

カミーユ・コロー「モルトフォンテーヌの想い出」
油彩・キャンバス 1864年(パリ ルーヴル美術館)

パリの裕福な衣服商の子に生まれる。中学校生活をルアンで過ごし、自然への愛を身体に覚える。自ら芸術家の夢を抱き、家業の見習いをしていた1822年26歳の時に、父親の許しを得て画家を本格的に志す。古典的風景画家のミシャロンやベルタンに師事。その年すでに師らとともにフォンテーヌブローの森に写生に赴いている。
1825年以降、3度イタリアを訪れ、イタリア絵画の明るい光と色彩に影響を受けた。1825年に1回目のイタリア旅行。ローマやイタリア各地を巡り、古典主義的な伝統を踏まえながらも、自然に即した明快な風景画を描き、27年にはイタリアから2点の作品をサロンに送って初入選させる。翌年、パリに戻り、以後毎年春から秋にかけてフランス各地を写生旅行し、冬にアトリエでサロン出品用の大作と取り組むようになる。1831年からはサロンへの出品を再開し、特に33年には2等賞を得る。世間的な成功は遅いほうであった。1834年に2度目のイタリア旅行。この後、色彩のコントラストが弱まるとともに、色価は豊かに、陰影も繊細になる。また、即物的な写生よりもテーマ性を重視した歴史的風景画のジャンルを追求するようになる。1840年「小さな羊飼い」(メッス美術館)が政府買上げとなり、名声を博していく。1846年にレジョン・ドヌール勲章を受け、49年にはサロンの審査員となった。1843年の最後のイタリア旅行以後はほとんどフランスを出ず、主に別荘があるパリ近郊のヴィル・ダヴレーで、1年の大部分を過ごすようになった。1850年頃からはシャントルイユやフランセら若い風景画家が彼の周囲に集まり、寛大な指導者としての評価も高まる。ルソーやミレーたちバルビゾンに住む画家たちとも親しくなった。
画風は次第に銀灰色を主調に抒情的、夢想的となり、多くの追随者を生むほどその人気は圧倒的なものとなった。1855年にはパリ万博で最高賞を獲得。1860年代になると、「真珠の女」(1869年頃、パリ、ルーヴル美術館)など人物画が増え、今日では晩年の類型的な風景画よりも、その構成力の強さと典雅な趣とによって高い評価が与えられている。また、完成されたアトリエ作品よりも新鮮な写生画のほうに、後の印象派の画家たちは重要性を認める。
人徳に厚く、仲間や後輩に対して援助を惜しまなかった。貧苦に苦しんでいたドーミエに家を贈ったり、ミレーの没後は遺族に大金を送って見舞ったりもしている。フォンテーヌブローの森との関わりは、没する2年前、1873年9月にバルビゾン近くのバ・ブレオーで写生中の様子を見かけられたところで終わっている。

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