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ARTISTS

Atsuko Tanaka

田中敦子

1932-2005(昭和7年~平成17年) / 日本

田中敦子「絵画」合成樹脂エナメル塗料
キャンバス 1960(トゥールーズ、レ・ザバトワール(旧アンソニー・デニーコレクション)) 

大阪市に生まれる。1951年楠蔭高等学校卒業後、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)西洋画家に入学したが秋には退学、高校時代に通った大阪市立美術館付設美術研究所に戻る。同研究所で出会った金山明に、具象から抽象への転換を勧められる。
1953-54年入院中、退院を待ちわびて順に描いた数字に“これが絵画だ”と認識する。退院後、脈絡を失い反復する数字を描いた、一連の布の作品を制作。1954年22歳で、金山と白髪一雄、村上三郎らの始めた「0(ゼロ)会」に参加。嶋本昭三から具体美術協会への参加を誘われて、1955年春頃入会した。
1955年の第1回具体美術展と第3回ゲンビ展で「ベル」を発表。観客がスイッチを押すと、突然、電気回路でつながれた20個のベルが鳴り響く。緊張感が潜在する展示空間を、けたたましい音が駆け巡った。翌年秋の第2回具体美術展では、形もサイズも色もさまざまな管球約100個と電球約80個、放電管、電気コードで覆われた衣装「電気服」を披露。大阪駅で見たネオンサインから着想した鮮やかな人工色の光を、伝統的な着物の上に点滅させる。この「電気服」の設計図から出発し、刺激的な色彩の大小の円形と濃密な即興の描線とが複雑に絡み合う、独特の抽象画が生まれている。合成樹脂エナメルなどを使い、画家の身体の動きの軌跡をたどって、夥しいバリエーションが描かれた。
1965年33歳で全米7か所を巡回した“The Japanese New Painting and Sculpture”に選ばれ、ニューヨーク近代美術館のコレクションに入った。具体展には1965年第15回まで出品。内部で軋轢が起き金山とともに脱退、同年二人は結婚する。1986年ポンピドゥー・センター(パリ)の「JAPON DES AVANT GARDES 1910-1970 」で主要作品が紹介される。2005年 死去。2007年国際展「ドクメンタ12」にて大特集。2011年日英西三カ国で「田中敦子-アート・オブ・コネクティング」展開催。
日本の戦後現代美術への再評価が高まるなか、とりわけ重要視される女性作家の一人。点を繰り返して空間を満たし、線でつないですべてがひとつに結ばれる壮大な流れを、個々の作品の世界に展開させる。欧米の前衛芸術に強い刺激を受けながらも、独自のみずみずしい芸術を作りあげた。

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