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ARTISTS

Leonard Foujita

藤田嗣治

1886-1968(明治19年~昭和43年) / フランス

藤田嗣治 「カフェ」 油彩・キャンバス
1949年(パリ フランス国立近代美術館)

東京の名門の家柄に四人兄弟の末子として生まれる。陸軍医の父親は、芸術への理解も深かった。自立心が強かった少年期に画家の夢を抱き、中学から夜学でフランス語を学ぶ。1905年東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学、1913年26歳でパリに渡る。間もなくピカソのアトリエに招かれキュビズムやルソーの絵を目にした。パリの絵画の自由さ、新しい芸術の時代を直感。他人の真似ではない絵を描くことを、早い段階で強く意識する。モンパルナスで研鑽を積み、1917年に初個展を開いた。
1921年35歳で3作品をサロン・ドートンヌ展に出品。「素晴らしき乳白色」と絶賛された淡いクリーム色の滑らかな絵肌の上に描かれた高貴な裸婦像は、それまでのパリ画壇にない独創的な美をたたえていた。日本画の面相筆と墨を使って生み出された、流れるように伸びやかな細い黒の輪郭線は、白い肢体の艶やかさを引き立てていた。モノクロームの余白は、フランス人の共感を呼ぶ更紗のような裂布で優美に装飾されていた。東洋を感じさせながら西洋美術の精神にも適う新鮮な絵画は大好評を博す。オカッパ頭にロイド眼鏡の装い、5度の結婚を経験する女性遍歴、奔放な私生活ぶり。“フーフー(お調子者)”と呼ばれた突き抜けた個性でも、メディアや社交界の注目の的となった。
1929年世界恐慌が始まり、エコール・ド・パリの華やぎは終焉。43歳で17年ぶりに日本に帰国。1931年から中南米を旅し、黒と白が主調だった画面に色彩があふれ出した。2年後再び日本で活動し、二科展等に出展。1939年の日中戦争以降に戦争記録画を制作、戦後の1949年、美術界の責任を負う形で日本を去る。以来、一度も日本に戻っていない。ニューヨークを経由して1950年フランスへ渡る。乳白色の地に日本の筆と墨を使った女性像や猫の絵が復活。最も多く描かれたのは、空想の世界の子どもたちであった。1955年68歳でフランスに帰化、1959年カトリックに改宗。晩年は宗教的主題を多く制作している。
海外で高い評価を得た日本人画家の先駆者である。1920年代の乳白色の下地は、日本画の優雅な地肌の効果を西洋概念中に再現する試みのなかで、油彩のキャンバスに異物質の層を重ねて独自に生み出された。その上に絵具を薄く塗り、やわらかく湿り気を帯びた女性の肌の微妙な質感を、半光沢の下地を活かして表現している。生命を注ぎ込むようにして作り上げたこの地塗りの技法を、画家は身内にさえ語ることなく隠し続けた。近年の科学調査は、「素晴らしき乳白色」形成の秘密を明らかにしようとしている。

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